まったくかなわないと、そう思った。
寝ていなかったからか、気が立っていたのは事実だし、それは認めよう。
本当は追い出すつもりだった。これは自分の『罪』だし、エステルを巻き込むわけにはいかない。だから隠し通そうと、そう思っていた。なのに、
(結局、エステルに丸め込まれたというか…)
もうあの冷たい心も消えてしまった。エステルに解かされてしまった。
あんなに必死に塗り固めた壁ももう壊された。
「エステルにはかなわないな…」
ここ数週間穏やかな気持ちで笑えたことなんてなかったというのに、もう普通に笑える自分が居る。その事実に、自分は実はすごく単純なんじゃないかと思ってしまう。
そのエステルはというと、『疲れたからシャワー浴びてくるわ!』といってシャワールームに向かってしまった。
「ふぅ…」
パタン、と出てきたエステルは軽装で出てきた。長い髪は乾かすのはいつもめんどくさそうではあるが、その髪を櫛でとくのは意外と楽しい。
「ヨシュアは?」
「あぁ…僕はエステルが来る前に済ませていたから。」
お風呂には昔から時間をかけなかったから、シャワーなんてほんの数分で終わってしまう。近づいてきたエステルがそっと髪をなで、それを確認したようだった。
「嘘だと思ったの?」
「え?違う違う!相変わらず綺麗な髪だと思ったの!」
また水分を帯びてしっとりとしている黒髪をやさしく触る。エステルは小さい頃からヨシュアの髪をよく拭いていた。風邪をひくから、という名目で互いの髪を拭く。エステルの髪をヨシュアが拭くというそれは、エステルなりのコミュニケーションのとり方だったのかもしれない。やさしくなでるそれは、昔を思い出させる。
「エステル。」
「ん?」
そっと手を握ると凛とした紅い瞳が見つめてくる。そっと重ねられる手。
昔から温かかった。
「聞いてくれる?」
「…うん。でもきつかったらやめてもいいから、ね。」
あの夢の話をすることは、自分にとっていいことだとは思わなかった。
つまり受け止める、のではなくあの足音と向き合うことになるのだから。
でも、エステルは聞いてくれるといった。
あの足音に向かい合うのは一人じゃない。
つながった手の先が温かくて泣きそうになった。

「夢に出てくるのは僕と“足音”」
「“足音”?」
――分かる限りだと、きっとアレはもう一人の僕、ということになるんだろう。
あのままあの組織にいたら、僕はああなっていた。そのナレノハテ。
全身を真っ赤に染めながら、ギラギラとかがやくあの琥珀はなお、よどんだ闇の中に居た。
楽しそうに双剣を血に染め、それでもなお渇きはなくなることなく、そして際限なく存在していた。何であればこの渇きはなくなるのか。血で満たしても満足はせず、次第にその力に溺れていく。
あの暗闇で見た顔は、ひどく楽しそうだった。
「僕はもしかしたら彼みたいに、」
「違うよ…それはヨシュアじゃない。」
エステルが手をやさしく握ってきた。まだ大丈夫、まだ向き合える。
「―――たまに思う。僕はエステルを好きだけど、それだけじゃ足りないんじゃないかって。もっと深く深く、身体じゃなくて心がつながりたい。
これは渇き、なんだよ。きっと“あの僕”も“この僕”も、何かが足りない欠陥人間なんだ。足りないところはなんで埋めればいいのか、それはきっとエステルに埋めて欲しいんだと思う。」
学べるものは何でも学んだ。でも、それでも足りない。“あの僕”は足りないものを力で手に入れようとした。それが間違っているだなんて気がつかずに。でも僕はそれに気がついた。まだ気がついただけマシだったのかもしれない。
エステルの返事はない。さすがに気持ち悪いかな、と思ってエステルを見ようとすると、手をさっきよりもグッと握られた。
「エステ…」
「じゃああたしをヨシュアにあげる。」
「なっ…!」
にを言って、とつづくはずだった言葉は消えてしまう。呼吸が出来ない。エステルは何を言っているのか分かっているのか?
僕の手においてあったエステルの手が、頬に触れる。暖かな手が、いつのまにか冷たくなっていた僕の頬を暖める。
「その代わり、ヨシュアもあたしにくれる?あたしがあげたぶんだけ、あたしに。」
そういって微笑むエステルに少し呆然としながらも、そっと、その身体を抱きしめた。
エステルは僕の身体に身を預けて、背中にやさしく手を置いてなでてくれる。僕が泣いているのを見ないで居てくれるのが、嬉しかった。

2人はベットに横になっていた。うえからシーツをかぶり、表情はどこか楽しげに。
「なんだか子どものころを思い出すわね!」
「・・・楽しそうだねエステル。」
向かい合ったまま手をつなぎ、ニコニコしているエステルに、微妙に戸惑い気味のヨシュア。2人の温度差は表情を見ていれば分かることだろう。
(なんであんな告白まがいのことをして手をつないでるんだ…?)
せめてまだ、別々のベットに寝ていればいいものの、エステルの半ば強引な説得によって、2人は再び同じベットに向かい合って寝ていた。
見る人が見れば仲むつまじいカップルに見えなくもないが、きっと彼らを知る人間が見れば、相変わらず進歩しない関係だと呆れるだろう。
(そろそろ眠くなってきたな…)
そう思ってあくびした時だった。
ふわり、と抱きしめられる感覚。
「エステ…ッ?!」
「ヨシュア、私ヨシュアのためだったら砂漠に雪だって降らせてみせる。」
「それ…は」
急に何を、と思った。そんな非現実的なこと。
「無理って言いたい?でもそれくらいの気持ちよ。あたし、ヨシュアのためだったら結構見境ないんだから。」
楽しそうに話をするけど、エステルが自分の大切なもののためだったら見境なく暴走してしまうのは、今までの経験でよく分かっている。
抱きしめられた瞬間から、何故かよく分からないけれど妙に眠気が深くなってきた。
ふわふわとした夢心地の中、聞こえた歌。

(この歌…)

題名は知っている。あのさみしげで、でも情熱的なあの歌は、


砂漠の雪



この日以来、あの“足音”は聞こえない。




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