ぼんやりとした淡い緑に囲まれた、白い壁の家の前に俺は立ち尽くしていた。
目の前にはファブレ家の四分の一ほどの庭が広がり、視界はうっすらとした霧に覆われたように白く、何もかもが光を放つように眩い。風に揺れる木々の葉は電飾を巻き付けたようにきらきらとして、影さえ白く躍るように地をなぞる。
まばたきをしてぐるりと視線を動かすと、ふと誰かの姿が目に入った。
あれは。
(アッシュ…?)
長く紅い綺麗な髪を揺らして、相変わらずぴんと伸びた背筋で威風堂々と歩いてくるのは、間違えようもなく彼の(元?)被験者だ。両腕一杯に色とりどりの花束を抱えて、足取りも軽やかに庭に入ってくる。彼の足が真っ直ぐ向かったのは、白い壁に沿うように置かれた、小さな可愛らしいベンチだった。よく見ると、そこにも誰かがいる。
誰だろう。目を凝らしてよくみようとすると、なぜだか水を滴らせたようにぼんやりとして見えなくなってしまった。辛うじて、髪の長い女の人が座っている、ということは分かる。眠っているのか、腰掛けた体は僅かに傾いて、アッシュが歩いてくるのにも気付かないようだった。
アッシュはベンチに近寄ると、膝をついてその人の顔を覗きこんだ。名前を呼ぶ、胸を突くほどの優しい声音は分かるのに、けれど彼がはっきりなんて言ったのかは聞き取れなかった。
緩やかな風が髪を揺らすばかりで、彼女の反応がないのに困ってか、彼は戸惑ったように呟く。
「…眠っているのか?」
花を彼女の脇に下ろし、片手でそっとその人の頬に触れる。そして目を閉じているのを確認してから、アッシュは彼女に顔を近づけた。
「もう少し寝ていろ」
そよ風にさえ飲み込まれそうな、小さな囁きだった。
「……好きだ」
(ああ、あの人はきっと、アッシュの恋人なんだ)
ついぞ聞いた事のない優しい声は、容赦なく胸を締め付けた。
苦しくて息がつまり、涙が出そうになる。
(アッシュの隣で生きるのはあの人なんだ、そう、)
俺では、なく。
(これは)
こんな感情は。
(駄目だ)
駄目なんだ。
(こんなものを)
抱いてはいけないのに。
二人の唇が触れる直前で、すべての景色が奇妙に歪んで渦巻いた。
そのことにゾッとして、俺は知らず叫び声をあげていた。
(かみさま!)
喉が焼ききれてもかまわないと思った。この叫びが届くなら、声すら失ったって良い。
だから、どうか、
(これ以上、俺を惑わせないで下さい。これ以上俺をあいつの傍に置かないでください)
歪んだ景色はそのまま自分の心のようだった。何もかも輝いていた風景は黒く澱み、濁って、あの時多くの人の命を呑み込んで墜ちた地の底のように、何もかもを穢している。俺の心はこんなにも醜い。俺の願いはこんなにも絶望を誘う。もう誰の未来も、誰の居場所も奪わないと決めたのに。
(お願いだ!)
壊したくないんだ。奪いたくないんだ。
あいつの幸せを。あいつの未来を。
…なのに!
「ルーク?」
はっとして目をあけると、そこは波に揺れる船の一室だった。
俺はベッドに横たわっていて、そういえば少し酔って仮眠を取ったのだったと思い出す。すぐ傍にはジェイドが立っていて、よく見なければ分からない程度に眉を顰めてこちらを見ていた。なんども瞬きをして彼の顔を見つめ、ようやく乱れた息が落ち着いた。溜息のように、彼の名を呟く。
「ジェイド…」
「どうしたんですか。凄まじい叫び声が聞こえましたが」
「ごめん、ちょっと、夢を…」
片手で頭を支えながら体を起こそうとすると、彼はそれを押し留めた。
「まだ顔色が悪いようです。もう少し寝ていなさい」
「だけど、」
眠ればまた夢を見るかもしれない。
いつか訪れるかもしれない未来を映す夢、俺はそれが恐ろしい。それを見てしまうと、心の奥底が痛んで苦しいのだ。
その痛みの原因が、分からないほど俺は子どもではない。
目蓋の裏に残る、幸せそうな二人の姿と、歪む景色が胸を強く押しつぶした。
アッシュが掴む幸せな未来、それを歪ませるのは俺なのだろうか。
「どしよう、ジェイド」
困りきった視線を向けると、彼は俺の額に手をあてた。熱がないか測っているのだと分かったが、その優しい手つきが夢の中の彼と重なって俺を苦しめた。目の奥がツンと痛み、思わず目蓋を落す。
雫が目じりを伝った。
「俺は、かみさまに恋してしまった」