嬉しいのだろうか、恥ずかしいのだろうか、心苦しいのだろうか。
あの瞬間胸に宿った感情を、もう一度手のひらの上に乗せて考えてみる。

嬉しい。帰る場所を、優しい繋がりを、手に入らないと思い込んでいた家族を得た。
恥ずかしい。弟として。今まで散々罵りあい殴りあい反目しあった彼と、兄弟になること。
心苦しい。生きて帰ってきたことで、彼の居場所を奪うことはないにしても、削り取ってしまうのではないか。

…どうだろう。
考えてみると、そのどれも含まれているような気がする。けれど、何か大きく食い違っている気もする。
(…かぞく、になりたかった。奪うことなく、隣にいたかった)
指を折り曲げて、手のひらを強く握り締めた。目を閉じると、閉じ込められた感情が手のひらの中で大きく脈を打つ。
嬉しい恥ずかしい心苦しいそのすべては確かに心にあるけれどもっと強いのは。

悲しい。


お披露目会が終ってしばらくしても、アッシュと二人で話す機会は得られなかった。
政治的な話は俺にはよく分らないが、ナタリアとの婚約の件、アッシュが不在だった間のキムラスカの国政状況、ダアトやマルクトとの今後の関係について…などなど、懸案事項は山積みらしい。
ほんの少しだけで良いから、なんなら手紙を渡すだけでも良いからと必死に頼んでみたが、今は大切な時期だから、と断られた。
突然帰ってきた王位継承者の命を狙うものが居ないとは限らない。アッシュを守るために万全の状況を作り、心身ともに少しの負担もあってはならない、というのが現国王の意向らしい。確かに、今までアッシュが置かれてきた状況を考えると、身の安全はともかく(自分で自分を守るくらいわけないだろうし)、精神的な負担をこれ以上与えるのは酷だ、と判断されるのは当然だろう。
それは、俺も賛成する。けど。

「手紙くらい良いって思わないか…」
「おや、まだ伝えていないんですか」
庭に引き出してきた机にべたりと頬をつけて不満を漏らすと、ちょうど顔が向いている方の正面に座っていたマルクト軍人が、さも意外というように笑った。父上はマルクト人が嫌いだけれど、どうしてかこいつとガイが家に入ることは特に制限せずに許してくれる。そりゃ、旅の間何度も出入りしていたし、今更駄目だって言うのも変なんだろうけど。
「ジェイドからも何とかするよう言ってくれよ」
「この国において、わたしにあなた以上の権限があると御思いですか?国王の甥、という地位のあなた以上の?」
「あんたなら出来そうな気がする」
「お褒めいただき光栄です」
にっこり。
…こいつは相変わらず笑顔が不気味だ。
褒めてないというのも何だか無駄で面倒なことのような気がしたので、俺は深い溜息を吐いてぐったりと目を閉じた。
よく晴れて静かな午後だ。時折邸を見回る白光騎士団の鎧が鳴る音が小さく聴こえる以外に気になる音もしない。ペールが居なくなって僅かに変わった近くの花壇からは、俺が嗅いだことのない匂いが風に乗って流れてきていた。この邸も、何も変わっていないようで随分変わってしまったのだろうか。そう思うと寂しくて、やはりここに居場所はないのだろうかなどという後ろ向きな考えさえ浮かんでくる。
でも、そんなことは全然無いと分かってる。だからこそアッシュにはきちんと話をしておきたかったのに。
「…逃げるみたいで嫌だから、ちゃんと言ってから行こうと思ってたんだけどな」
「ご両親には?」
「すっげー反対されたけど、許してくれた。危険なのは確かだけど、あんたもいるし」
「おや」
珍しく驚いた様子で、ジェイドは表情を和らげた。少しだけ首を傾けた拍子に、メガネのレンズを日の光が横切り、一瞬強く目を灼く。
「頼りにされているとは思いませんでした」
「なんでだよ」
「いやいや」
なんだか異様にニヤニヤし始めて怖い。思わず口に出しそうになって飲み込んだ。ジェイドは怒っていても笑顔の時があって恐ろしいけれど、今回は機嫌を損ねたような様子も無く、優雅にティーカップを手に取っている。いい匂いですね、なんていいながら唇をつけ、かすかな音をたてて紅茶を口に含む。その様子をぼんやり見守って、その無意味さに長く息を吐いた。
「…まあいいや。落ち着いたらまた手紙書こう。届くかわかんねーけど」
ジェイドにつられたように、自分の目の前に置かれたティーカップを手にとって、中身を零さないように手首を使ってクルクルとかき混ぜた。最初は湯気を立てていたそれは、今はすっかり冷めてしまっている。そのほうが飲みやすくていいのだけど。
「予定はどのくらいなんですか?」
「うーん、あちこち回るつもりだし、未定。ジェイドの休暇が終わったら一旦戻らなくちゃいけないけど」
「その心配はありませんよ。無期限休暇届を提出してきましたから」
「…受理されるのか、それ」
「ははは」
何で笑うんだそこで。


結局それから二日して、邸を出発した。念のためにアッシュの部屋に手紙は置いてきたが、いつ読まれるのかは分からない。

(傷心旅行に行ってきます)

時間が無かったのでこれだけ。
伝わればいいけど、伝わらないだろう。俺だって分からないんだから。


(なあ、アッシュ。俺は悲しいみたいなんだ。なんでだか、おまえならわかるのか?)





【monophony】(モノフォニー)
(伴奏のない単旋律の音楽のこと。)





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