最後に背中で聞いた言葉を、今も覚えている。
膝をついてその石に触れると、ひんやりとした手触りが返ってきた。当たり前だけれど、少しの熱も宿さないその感触が、とても寂しいことのように感じた。
この石の下に、何が残っているわけでもなく、何を残せるわけでもなく、彼が生きた証の何一つ、ここに存在してはいない。空の棺さえもなく、そこに込めようとした思い出も、本物であったのかすら疑わしい。
それでもここは彼の墓標なのだ。
ここにあることを否定すれば、世界中のどこにも、彼女の帰る場所はなくなってしまうのだから。
立ち上がって振り返ると、淡く光るセレニアの花に囲まれて、ティアは静かに目を閉じて立ち尽くしていた。どこからか入り込んだ緩やかな風が花を揺らし、気まぐれに彼女の髪に纏わりついて、そして去っていく。星の重力にしたがって髪先が地を差し、ぴたりと動きを止めたころ、ティアはゆっくりと目を開けた。
光を宿して瞳が揺らめく。
「ルーク。貴方に伝えたいことがあるの」
「…うん」
頷くと、ティアは首を傾けて微笑んだ。その仕草と、ゆらゆらと揺れる髪を見て、思い出した光景があった。まだここに彼の墓標がなく、自らの生まれたわけの全てを知る前だった。ここで彼女と約束を交わして、新しい自分としてここから旅立った。
思えば、あのときが始まりだったのだろう。
俺にとってセレニアの花が咲く場所は、いつだって始まりと終わりの場所なのだ。
「俺にも、あるんだ」
「本当に全部覚えてるの?」
「うん。何一つ忘れてなんかいないよ」
「不思議ね。こんなに変わってしまったのに」
「はは…、変かな」
「ええ、そうね…変ではないけど、おかしく感じるの。でも、中身は全然変わってないんだもの。安心したわ」
見上げると、随分と高い場所にティアの顔があった。なんだか俺も変な感じだ、呟くと、ティアは目を細めて微笑んで見せた。伸びてきた手のひらが、優しく頭を撫でる。
「やくそくを、守ってくれてありがとう」
「うん、俺も…俺のことを、ずっと待っててくれてありがとう、それから、」
(俺も、ティアのことが)
いざ、口にしようとして、どうしようもなく胸が痛くなった。
俺は今からひどいことを言う。ずっとずっと帰りを待ち続けていてくれた彼女に対して、優しく見守り続けてくれた彼女に対して、背信とも呼べる想いを告げねばならないのだ。
彼女は傷つくだろうか、苦しむだろうか。俺のことを、嫌いになるだろうか。
もう、信じてはもらえないだろうか。
「ルーク、私ね。…ずっと、あなたのことが好きよ」
「ティア…?」
「ずっと、ずっと好き。あなたがあなたである限り、私はあなたを想い続ける。もう、それでいいと思うの」
「俺…俺は、俺だって、ティアのことが好きだった」
拳を握り締め、必死になって言葉を発する自分は、傍から見ればひどく滑稽だろう。彼女はきっとすでに気付いている。
こんなのは、唯の見苦しい言い訳だ。
「だけど、俺は…」
(いま、言わなきゃ)
もう、隠し事はないって約束したんだから。
ふいに目の前が真っ暗になって、ティアの姿が見えなくなった。俺は焦って手を振り回そうとしたが、そっと背中に腕が回る感触がして、抱きしめられたのだとようやく気付く。
ふわりと香る優しい匂いは、いつか抱きしめた時の、彼女の香りと少しも変わっていない。そうして、穏やかに降る言葉に、俺は自らの勘違いを知った。
「いいの。もう…、いいの。ルーク。帰ってきてくれてありがとう」
心に突き刺さるのは、どうしようもない自分の愚かさだ。
変わってしまったのは、周りじゃない。
俺なんだ。
「…俺、も。ずっとティアのことが好きだよ」
震える声音を隠すことは出来なかった。止め処なく溢れる涙をどうすることも出来ない。
ティアは優しく俺を抱きしめて、あやすように髪を梳いてくれた。唇を噛んで嗚咽を堪えながら、俺は必死に言葉を紡ぎだそうとして失敗する。唇を開くたびに漏れるのはただ、惨めな泣き声だけだった。
それでもどうにかして伝えたかったんだ。
きみの居場所になりたかった
師匠の居ない世界で、一緒に支えあって。
でも、
「ルーク。私よりも、誰よりも幸せになって。私はそれだけで充分だから」
(なあティア。俺たちはそれでも、ずっと一緒にいられるだろうか)
体を離したティアは、涙でぐちゃぐちゃになった俺の額に、優しく唇を落とした。
傍で感じたそのうつくしさに、俺は何も言えずに彼女を見返す。
「どうか貴方に、貴方の神さまのご加護がありますように」
(終り。)
「えっ、アッシュここに来てたのか?」
「ええ。一足違いで出発してしまったけれど」
「なんであいつ…、忙しくて話す暇すらない有様だったのに」
「大方、ありとあらゆる人物を脅して来たんじゃないですか?」
ハハハと笑いながらジェイドがメガネを光らせる。表情はにこやかなのに言ってることは穏やかではない。しかし想像してみると、あいつが胸元を掴めないのは女性くらいではないかという気がした。国王陛下ですらひと睨みで黙らせそうだ。
「で、あいつどこに行くって?」
「さあ? あなたが居ないと知るとさっさと出発してしまったから」
「俺?」
「ええ。随分と腹を立てていたわよ」
「うげっ」
「大変ですね〜ルーク。彼のことですから、見つかったら即刻捕まって監禁、みーっちりしごかれるんじゃないですか?」
「いやに具体的だなっ! 俺だって好きで黙って出てきたわけじゃねーよ!手紙だって書いたし…」
「何行ですか?」
「え………あの、一行、だけど……」
だって今更アイツに手紙を書くなんて気恥ずかしくて出来ない。
「それは、怒るわね」
「怒るでしょうね」
「な、なんだよ! いいだろもう!とにかく、仕方ないからアッシュのことは置いといて俺たちは当初の予定通り行くぞ!」
「キムラスカの方々もファブレの赤毛に振り回されて大変ですね」
「何か言ったか!」
「いいえ?何も? それで、次はどこに行くんですか」
笑顔で屈んで頭を撫でてくるその手を振り払って、俺はいくらか不機嫌に答えた。ティアがなぜかミュウを見るような目で俺を見ている。背筋が一瞬冷たくなった。
「ベルケンド! そのあと………、グランコクマに行く」
ジェイドがおや、という顔をして俺を見たが、気付かない振りをして顔を逸らした。そんなことはお見通しだって分かってるけど、俺は何も言わずに不機嫌な振りをして、大好きだった人の名が刻まれた石に視線を注ぎ続けた。
確かめたいことと、やらなければいけないことがあるんだ。